
倒産や経営難に直面したとき、人は「もう終わりだ」と感じてしまいがちです。
ですが、終わりには“崩壊”と“完成”という、まったく異なる二つの形があります。
これは、人生の後半戦――すなわち「老い」そのものにも深く通じる視点かもしれません。
老いは本来、「完成」に向かう時間だった
孔子はかつて、自身の人生を振り返ってこう語りました。
「六十にして耳順う。七十にして心の欲するところに従えども、矩を越えず。」
年齢を重ねるごとに、他人の言葉が素直に心に入るようになり、
やがて自分の欲望すら、自然と節度のあるものになっていく。
それは、ただ“年を取る”ということではなく、
人として完成に向かって熟していく姿だったのだと思います。
一方で、現代における“老いの風景”はどうでしょうか?
私自身、まだ老いというものを実感できる年齢ではありません。
それでも感じるのは、長寿が当たり前になった現代では、老いのあり方がとても多様になっている、ということです。
穏やかに年を重ねていく方もいれば、戸惑いや苛立ちの中で過ごす方もいらっしゃる。
かつてよりも多くの人が「老い」という時間に向き合うようになった今だからこそ、
その“向き合い方”が社会全体に与える影響も、より大きくなっているように思います。
資本主義の中で、老いは「支えられない構造」にある
現代社会は、生産性・効率・競争・スピードを中心に設計されています。
資本主義の価値観の中で、“価値ある人間”とは「働ける人」「稼げる人」であり、
残念ながら、老いはその正反対の位置に追いやられてしまいます。
つまり老いは、本来の意味では「完成に向かう時間」であるにもかかわらず、
現代の社会構造の中では「社会的な役割を失った時間」として見られてしまうのです。
社会が育てるのは「崩壊に向かう老い」ばかり?
完成に向かう老いは、静かで目立たず、消費もしなければ競争もしません。
資本主義にとっては、経済的な価値を持たない時間です。
一方で、「社会や他人に苛立ち、過去にしがみつき、自己中心的になってしまう老い」は、
残念ながら今の社会の中で目立ちやすく、問題化されやすい存在となっています。
本来であれば“静かに熟す時間”であるはずの老いが、
うまく向き合われないまま“社会とぶつかる時間”になってしまっている――
これは、社会の構造の側にも原因があるのではないでしょうか。
人生の「終わり方」を、完成に向けて再構築する
私は「倒産」という言葉にも同じことを感じています。
倒産は決して“崩壊”ではなく、“完成”へと向かうひとつの節目にもなり得る。
事業を手放したからこそ、ようやく見えてくるものがある。
力を失ったときにこそ、初めて見える景色がある。
人生の後半や事業の終盤を、ただ“消えていく時間”にしてしまうのではなく、
「完成に向かって静かに整えていく時間」として捉えることができれば、
私たちはもっと穏やかに、自分自身とも、社会とも向き合えるのではないかと思います。
最後に
今、私たちの社会には「崩壊に向かう老い」を批判する声が溢れています。
けれど、それをただ否定するのではなく、
「どうすれば完成に向かう老いを支える社会が作れるのか」を問うことの方が、
ずっと大切な問いではないでしょうか。
そしてその問いは、年齢を問わず、誰もがいつか向き合うことになるものです。
倒産も、老いも、人生の「終わり」に見えて、実は“完成の入り口”なのかもしれません。